波動と神

波動機器と測定(原因と結果)


一般的には、全く見ることが出来ない。また、信ずることも難しい。
その際たるものが「神」の存在かもしれません。


感じること 見えること

 最初に笑い話のような「ほんとかなぁー」と思えるようなエピソードを2ツ紹介します。

 

常日頃から私どもの波動をいかにして科学的に証明するか。といった課題でいつもお世話になっている、
ある大学の名誉教授(工学)の先生がおられます。

その先生は、敬虔なクリスチャンですが、ある実験をしている折に
「世の中のどのようなものでも存在するのであれば、それは必ず科学的に証明できるはずです。
証明ができないということは存在しないということです。」と、話されました。

そこで、私は少し意地悪く先生に質問しました。

「先生は、クリスチャンですよね」「はい。そうですよ」
「では、神様はおられるのですか?」「はい。おられますよ」
「どこにおられるのですか
どんなお姿なのですか
おられるのなら、科学的に証明ができますよね!
どのようにその存在を証明するのですか?!」

先生は返答ができませんでした。
少しムッとされ、その場の雰囲気が少し険悪になってしまった。というエピソードがあります。

 

また、その先生とご一緒に伊勢神宮に参拝をする話があったのですが、
先生は「伊勢神宮に行くのは良いですよ。しかし、わたしは頭を下げることも、手を合わせることも
一切しません。」とおっしゃり、なんとなくイヤな気分になり、結果としてはご一緒することが実現しませんでした。
先生の中では、神様はたったお一人・・・という思いがあったのだろうと感じています。


 もう1ツエピソードをご紹介をします。同じくクリスチャンの方で
普段はポルトガルで病院に勤務されているブラジル人のお医者様のお話です。

そのお医者様は、年に1度だけ日本に来られ、患者様を診療されており、お会いする機会がありました。
その医師は治療する際一切のお薬を使われません。〝蜂蜜〟と〝ギターの音色〟だけを使われます。
普通の診療やお薬を望まれる患者様には、他の病院を紹介されるだけです。

その日、お昼ご飯を一緒にいただき、そろそろ帰ろうか。というときに
「この近くの山の中に良い水が湧いているところがあります。その水を取りに行きましょう。」
と言われるのでご一緒しました。

山の麓までは車で行き、そこから山中を歩く。ということで、正直参ったなー。と思いながら、
仕方なく腹をくくって、さっさと歩き始めたのですが、気づくと
先生は歩いて来られず、山の入り口でしばらく日本式のお祈りをされているのです。

 そこで先述の工学部のクリスチャン先生を思い出し「先生はクリスチャンだから、
先生の神様はお一人ではないんですか?」と尋ねると、「山には山の神様がおられます。
だからお祈りをしています。」とおっしゃいました。

同じクリスチャンの方でも『工学(物質を扱う)』と『医学(いのちを扱う)』では、全
く違うものなんだ。となにかを悟ったような気がしたものです。

その先生が言われていた言葉ですが
「自分も神様は見えません。でも感じることはあります。」と。


 

 実は、私にもにわかには信じられないような体験があります。

45歳頃・50歳頃・70歳頃の出来事で
それぞれ、
水の研究所で研究している時
波動の研究を始めた頃
波動という技術を広めるためにまっしぐらに進んでいる頃

その時々に全く関係の無い3人の方々から同じ話を伺いました。

 

【あなたは、三輪神社の神様に守られているんですね】


 私にとって三輪神社(奈良県)は、ふるさとの近くにある神社で、
昔から遊び半分でお参りしておりましたが、それほど気持ちを込めて、
真剣にお参りした経験が全くなく、自分の中でもそのような深い関係性があるのか「???」と、
疑問符が浮かぶ感覚ではありました。

しかし、全く関係の無い3人の方々から違う時期に全く同じことを言われれば
三度目の正直ではないですが「そういうものか。」と納得せざるを得ないような
タイミング・シチュエーションです。


 そう納得した時から私の波動への考え方が曲線から直線に変わったように思っています。
迷いから醒めた!と言うべきかもしれません。

波動の機器は、必要な道具ではありますが、全てではありません。

最も大切なことは〝いのち〟を見ることだと思っています。
つまり、どれだけいのちのエネルギーと対話をできるか。

波動を通じて、エネルギーと対話できる社会をつくっていきたい。


見えない波動と見えない神様

見えないもの同士が私という人間を通して、
大切な〝いのち〟をどう扱うか。それをこの世に表すためにつかわされている気がしてなりません。